欠乏症

2021年の暮れも暮れ、あまりの不毛な日々の連続に、もはやグレてしまった。...言い古されたクリーシェを避けようとするあまり、普通に不味い珍味を錬成してしまうという凡人の凡庸たるまさにその在り方を体現しながら、正月太りの前哨戦とばかりに全身を覆う脂肪のプロテクターを眺める。ムチムチといえば扇情的だが、実態は異常成人男性のだらしない肉体である。古代ギリシャの、精悍な男性が全裸で凛々しく佇むがごとき石像と比べることで、現代社会において消費するだけの満足した豚として惰性的に生を貪る人間の愚かしさが際立つことだろう。チェリー・ピッキングだって?それは申し訳ない。いや、誰がチェリーだ。

 

欠乏した状態、飢餓の状態において、人間は必死に生を求める。それは摂餌や飲水の試みであり、あるいは他者との闘争である。存在しない状態において真に価値を悟ることができる。先進国で数多食糧が廃棄される一方で、アフリカの一部地域では飢餓で子供が毎秒何人か死んでいるらしい。人は大勢死んでしまうとついには統計的に語られるデータと成り果てるのである。これがビッグデータ社会のDXである。話が逸れたが、飢餓こそ真の渇望であるということなのだ。その意味において、オタクが美少女を錬成するというのもよくわかる話だ。

 

オタクは青春と無縁の存在である。彼らは自身の持て余す想像力、独創力をもってイマジナリー・ガールフレンドの創造主となることで、新世界の神になるのだ。その原動力は「欠乏」であり、美少女をもとめる飽くなき欲望である。

 

しかし、世の中の陰キャは往々にしてつまらない人間が多い。皆が皆、欠乏したものを埋めようという確固たるモチベーションを胸に秘め、その若さゆえの無謀さ、蛮勇を大いにふるって生産活動に従事できるわけではないのだ。結局のところ、物質のみならずコンテンツすら飽和した現代社会においては、欠乏状態など存在することができないのである。

 

食糧が飽和することで生活習慣病が増え、金が飽和することで浅草に金の大便様オブジェが鎮座ましますことになるわけだが、オタクコンテンツが充実し、陰キャも女の子の概念に囲われて日々を過ごせるようになった現代において、もはや欠乏など生じ得ない。

 

アニメの女の子を見るのも楽しい。恋愛アニメで涙し、ヒロインの感情に萌えを叫ぶ。日常系アニメでゆるふわ女の子の愛らしい日々に没入する。アニメキャラは人格を持たないが、vtuberは毎日更新され、コメントを書き込めば応答してくれる。Twitterには同志が溢れており、気に食わなければブロックできる。気に入った人間は鍵垢に連れて行けるし、そうして人間関係はすっかりインターネットにアップロードされてしまった。陰キャ陽キャも関係なく、人間ー人間のかかわりの相当部分が仮想的に実装されていると感じる。

 

リアルの友人を想起するのは、実際会うときではなく、むしろTwitterInstagramで見かけたときではないだろうか。会話の頻度も、チャットの方が明らかに多いという相手が殆どなのではないか。

 

人間ー人間の関係が社会に飽和していると、その毒として色々なものが生じうるのだろう。しかし、ここで言いたいのは、陰キャという本来はコミュニケーション能力に相当の欠陥がある階層においても、インターネット化された社会においてはバーチャル人格と関わることができる(vtuberTwitterのネッ友はまさにその類のものなのだと思う)がために、もはやそこに孤独、つまり人間関係の欠乏は存在しえないのだ。

 

昔のネット掲示板全盛期とは異なり、いまや本当にほとんどの若年者のコミュニティはアップロードされてしまっており、ネットとはもはや日陰者のオアシスではなく現実社会がより滑らかになったもの、あるいは現実社会の肉体的・物質的な部分を剥奪してコミュニケーションを抽出したものとなってしまっている。そこでは人格を作成することができるし、消去することも容易い。

 

かつてのオタクのイメージとは、コミュ障や引きこもり、不潔などマイナスなものが多く、それらは現在も引き継がれているのだとは思う。しかし、そこには一定の”自負”があったのだと思っていて、つまり自分たちは世を穿った見方で見て、皮肉めいたユーモアを書き込み、突飛なアイデアを実行し、そして世間の連中とは違うという自らの逃避的信念をより強固にする傾向があったように感じる。もはやその手の行動力を産みだすほど、陰キャ階層はコミュニケーションの欠乏に直面していないし、社会からも隔絶されてはいないのだろう。陰キャ芸をするオタクが同種の人間同士で群れ、馴れ合い、対立している様はただの社会である。

 

人間ー人間関係が飽和してしまい、オタク・アイデンティティともいえる社会からの隔絶という要素が欠落してしまった今、かつてほど「テンプレートなオタク」は存在していないのだと感じる。やや寂しくもあるが、そんなものだろう。人間とは社会的動物である、ということをひしひしと感じてしまう。独りぼっちは、寂しいもんな。