瞬間性に酔う

人生を語ることに意味はあるのだろうか。ない、といえばこの記事はここで終わってしまうので、少し考えてみよう。

まあ、そもそも将来の話など真面目にしているのは青春病患者かその成れの果てくらいものだ。未来を語ることが許されているのは、語り手に対して無限、あるいはそれに近しい未来の可能性が残されているからである。例えば、医学生が大真面目に建築士としての未来を語っていたら、それはあまりに無意味なのだ。だが、高校生が医者になった自分を空想し、そして建築士になった自分を空想することは並立する。つまり、僕らは生きれば生きるほど未来の語る余地が狭くなっていくのだと思う。世間をみてみれば就活だの終活だのとうるさい現代社会だが、歳を取ると自分の死に方でしか将来の話ができなくなってしまうのだからあまりにも虚しい。

過去の話とは、畢竟、後悔と逃避である。所詮はやり残したこと、やらなければよかったことばかりが溢れている。そういう過去の分岐点に思いを馳せて、ifの世界線を妄想する。悲しき叙想法である。懐古という、過去を用いた自慰行為があるけれど、あれも構成成分はほとんどが後悔なのだ。「昔はよかった」のではなくて、昔のダメだった自分も愛おしいという、屈折した自己愛のタイムリープがそこに垣間見える。そして、過去に対する後悔とともに、当時の感情を強く想起して、疑似的な走馬灯を体感しているのだろう。複合的な感情の再現を前にして、僕らは言葉を失う。その状態をエモいと一括するのは、言葉遣いとしては大変便利なterminologyである。

現在に没入していたい。未来の可能性を語ることは、決して未来の可能性を広げない。目の前のことに熱中せずに将来のことばかり気にしていると、いざそれが目の前に現れたときに御すための実力が身についておらず機を逃してしまう。過去の話ばかりすることは、自分の精神をますます脆弱にする。過去とは確定した不変の単一の世界線である。その安定感はすさまじいものがあると思うけれど、それでも過去の話をしていると現在のことをあまりに見落としてしまう。だからこそ、現在という瞬間的な刹那に没頭していたい。

これは空間的な話においても同様だと思っている。つまり、まずは目の前のことに取り組んで、身の回りの人々に目を向けていたい。見えない遠い世界の人間に対してやたらと思いを馳せるのではなく、自分自身を取り囲む微小環境を大事にすべきなのだ。どうしようもなく人間は遠い世界のことを考えて、自分から逃避したがる癖がある。しかし、まずは現在の、リアルの世界における、自分のポジションを明確化することが大事だ。全ての語りはポジショントークである。だったら、自分のポジションを明確にし、自覚していなければならない。そのポジションこそ、過去でも未来でもない現在の、自分を取り囲む環境である。

客観的であろうとすることが理知的な人間の態度であり、そうすべきである―——という主張、というか思想を持つ人は多いようにみえる。むしろ、僕なんかは客観的であろうというポーズすら所詮はポジショントーク的なものであり、むしろ僕らは自分の主観にどっぷりつかって、自分のポジションを常に大事にして、確認して、その上で世界の一プレイヤーとしての行動に専念すべきだと思っている。

評論家ではなく弁論家になるべきで、主張するのは誰かの意見ではなく自分の意見であるべきだ。この意識を常に忘れずに生きていこうと思っている。そして、そのためにこそ自分の周囲の環境を大切に維持していくことが必要なのだ。