少子化、別によくない?という一若者の感想

少子化、別によくないですか?と思っている。

私は23歳の大学生であり、1浪して今はしがない地方の国立大学で学生をしている。そのような人間のポジショントークとして、少子化で別にいいのではという話を書いてみたい。

 

そもそも、少子化問題を扱ううえで、誰が何をすべきかという根本の部分があいまいであることが多いように感じる。

大前提として、国民一人一人は少子化対策のために何かをする責務を負わない。少子化それ自体の善悪を議論する前の段階として、少子化が何らかの側面で悪であったとして、そもそもこの現象は個人に帰せられるものではない。社会構造や政策の結果として今の出生率があるのみで、マクロの問題である。マクロの問題を議論するときに、その共同体の歯車の一つである僕らに対し責任云々の議論を吹っ掛けるのは、正直言って飛躍でしかない。その点で、時々与党政治家が口にする「女性が妥協しろ」といった提言は的外れもいいところなのである。少子化という現象はマクロの問題なので、それを扱う担当者のみが扱う義務を負う。ただの構成員である僕らに対し、何も求めないでほしい。自発的な変化を求めるのではなく、制度設計によって大衆の行動様式をコントロールするのが為政者であり、その権限を握っている人々が頑張ってほしい。

 

そして、少子化という現象を食い止めるべきかという問題に関して、なるようになればいいのでは?と思っている。そもそも少子化の突き進んだ果ての2100年ごろには、日本の人口は5000-6000万程度に収束し、各年代の人口比率はおおよそ均等に近づいているのだという。人口動態の予測とは往々にして正確なので自分はこの統計をある程度信頼しているのだが、この社会は別に許容できないものではないだろう。もちろん人口ボーナスは今よりも薄れるので産業や技術の側面ではよくて世界の二流国に落ち着いているだろうし、また現代日本と比較すると切り捨てられる地域は確実に存在するのだと思う。そしてそれで別にいいのだと思う。優秀層を国外に送る仕組みは水面下ですでに相当整っているし、低所得~中所得層に対する福祉の仕組みもある程度作られており、あとは身の丈に合った消費行動を我々がとらざるを得なくなるんだろう(購買力の低減により)。

そこに至るまでの過程が日本の場合はあまりにハードランディングだという主張があり、実際そうなのだと思う。それでも、別にいいんじゃないかと思っている。高齢者の数が若者の数に対して多すぎるので、すさまじい額が労働生産人口からむしられていく(すでにむしられている)んだろうけど、金を吸われるだけで生活できるなら別にいいんじゃないかと思う。介護しなきゃとかいろいろあるんだろうけれど、正直それだっていくらでも手を抜くことはできる。身の丈に合わない良心を堅持しなくてもいい。あるいは、子供を作らなければ結構お金は浮く。今は無料の娯楽も多くある。親にしろ子供にしろ、家族というものにそんなに大した価値はない。さっさと解体した方がいい。その静かなる抵抗こそ今の若年中年層がとるべき反逆だと思う。

 

この社会においてそもそも子供を作ったところで、子供の人生はせいぜい二流国たる極東の島国でぱっとしない人生を送って死ぬだけである。この社会において出生を強いることがどこまで許容されるんだろうか。ある種の暴力であると思う。

 

しかし、すでに出生を強いられ誕生してしまった我々が、生殖をしたいと思ってしまうのは許容されると考えている。これは合理的な意思決定というより、生物として強いられている呪いのようなものである。更年期障害が極めて生物学的なメカニズムにより精神に影響を与える、加齢に随伴する不可避な現象であるように、生殖自体への訴求とは誕生自体に随伴する、回避可能性の低い現象である。その欲求にもとづき個人が生殖をおこなうことそれ自体は決して悪ではない。しかし、そもそも持続的ではない社会が生殖を奨励することは悪であると確信している。社会はあくまでニュートラルであるか、あるいは生殖自体を奨励しない姿勢を堅持すべきである。

 

社会において家族という形態は必須ではない。同性婚にしろ夫婦別姓にしろ、そもそも婚姻制度自体を廃止すれば自動的に解消される問題をなぜグダグダ右派も左派ももめているのだと、冷めた目で見ている。産みたい人が産めばいいし、一夫多妻をやりたければやればいい。生殖したくないならしなければいい。結果社会が少子化の道を突き進んだとして、どこかで均衡状態に達するのだ。その過程がハードランディングであるなら、その中で必死に生きるだけである。

 

 

多重世界観

世界観が飽和する。
今の社会はエコーチェンバーのマルチバースで、重層的な分断の中で僕らはタグ付けされた個性のもとにカテゴライズされている。さながらタグ検索で一覧表示される投稿のように、各人の属性に基づき人々を包摂するコミュニティが多数存在している。僕は東北大生で、医学生である。男子校出身で、ネット発の文化を主に摂取している。家庭は典型的なアッパーミドルだ。一人の人格は無数の尺度から分節され、そして各々のタグからまとめ上げられたコミュニティに所属することになる。様々なコミュニティに同時に帰属し、そして個人とは個人ではなくなっていく。多面体として、あるいは一方向からの射影としてのみ把握される人間の真の姿というものは客観的、あるいは間主観的には把握されることはない。
自分探しなんて偽物だ。それは「青年期に差し掛かった、コンフリクトに直面する学生」という属性を付与することで、同種の人間が集うコミュニティに帰属するための方便である。
また、趣味とは既存の属性からある程度演繹されるものである。すでに所属しているコミュニティ群と親和性の高いタグがサジェストされているだけだ。それはインターネットにアップロードされたコミュニティにおいて顕著であるが、一方で現実社会でも同様である。郊外の専業主婦は主婦コミュニティにおいて「流行」をインストールするが、それは都会の女子高生コミュニティにおけるものとは隔絶されているということは、言うまでもないだろう。
社会全体を捉える軸とか、語るための物語というものはすでに存在しておらず、自身の所属するコミュニティ群こそが僕ら一人一人にとっての世界である。他のコミュニティにおける価値観とは、博物学的に把握されるただの記述に過ぎない。
その状況ですべきことは、正義とは何かといった普遍的真理に関する思索を深めることでもないし、自分とは何かといった自身の内面の開拓をすることでもない。どのコミュニティを選び、どのコミュニティを切り捨てるかという取捨選択を主体的に行うことだ。帰属するコミュニティ群こそが自分という人格を構成しているという現実を見つめるべきである。勿論、捨象できない属性というのも確実に存在する。それらを言語化して把握しようとする営みこそが本当の自分探しなのかもしれない。しかし、不変の属性を見出すことの実際上の意味とは、変えることのできる自分の属性を認識することにある。そのうえで、何に帰属するのかを選び取っていくのだ。
この構図は、コミュニティごとにアカウントを分けるSNS社会の有り様に酷似している。コンテンツごとにわけるのでもいいし、関係性によってわけるのでもいい。
こうして、1つの世界の中には多数かつ多重の世界観が産まれ、今も増え続けている。そんな中で、すべての社会に通ずる価値観というもの自体が存在の危機に瀕している。
法律は典型例かもしれないが、逮捕されない程度の軽度の犯罪が横行しているコミュニティというものは確実に存在する。世界観の飽和した世界においては、そんなものなんだろうと思う。
目指すべきは世界平和ではなく自分の帰属先を平和にすること、あるいは平和な場所に帰属することである。僕はそのための属性を得るための努力をしていたい。それは属性が得難い場合には得ること自体を目的とした努力であり、属性を見つけること自体が難しい場合には情報収集を徹底し、そして属性の維持や隣接するコミュニティの属性を得るべく行為を繰り返していく。その先に、快適な空間が見つかるかもしれない。

欠乏症

2021年の暮れも暮れ、あまりの不毛な日々の連続に、もはやグレてしまった。...言い古されたクリーシェを避けようとするあまり、普通に不味い珍味を錬成してしまうという凡人の凡庸たるまさにその在り方を体現しながら、正月太りの前哨戦とばかりに全身を覆う脂肪のプロテクターを眺める。ムチムチといえば扇情的だが、実態は異常成人男性のだらしない肉体である。古代ギリシャの、精悍な男性が全裸で凛々しく佇むがごとき石像と比べることで、現代社会において消費するだけの満足した豚として惰性的に生を貪る人間の愚かしさが際立つことだろう。チェリー・ピッキングだって?それは申し訳ない。いや、誰がチェリーだ。

 

欠乏した状態、飢餓の状態において、人間は必死に生を求める。それは摂餌や飲水の試みであり、あるいは他者との闘争である。存在しない状態において真に価値を悟ることができる。先進国で数多食糧が廃棄される一方で、アフリカの一部地域では飢餓で子供が毎秒何人か死んでいるらしい。人は大勢死んでしまうとついには統計的に語られるデータと成り果てるのである。これがビッグデータ社会のDXである。話が逸れたが、飢餓こそ真の渇望であるということなのだ。その意味において、オタクが美少女を錬成するというのもよくわかる話だ。

 

オタクは青春と無縁の存在である。彼らは自身の持て余す想像力、独創力をもってイマジナリー・ガールフレンドの創造主となることで、新世界の神になるのだ。その原動力は「欠乏」であり、美少女をもとめる飽くなき欲望である。

 

しかし、世の中の陰キャは往々にしてつまらない人間が多い。皆が皆、欠乏したものを埋めようという確固たるモチベーションを胸に秘め、その若さゆえの無謀さ、蛮勇を大いにふるって生産活動に従事できるわけではないのだ。結局のところ、物質のみならずコンテンツすら飽和した現代社会においては、欠乏状態など存在することができないのである。

 

食糧が飽和することで生活習慣病が増え、金が飽和することで浅草に金の大便様オブジェが鎮座ましますことになるわけだが、オタクコンテンツが充実し、陰キャも女の子の概念に囲われて日々を過ごせるようになった現代において、もはや欠乏など生じ得ない。

 

アニメの女の子を見るのも楽しい。恋愛アニメで涙し、ヒロインの感情に萌えを叫ぶ。日常系アニメでゆるふわ女の子の愛らしい日々に没入する。アニメキャラは人格を持たないが、vtuberは毎日更新され、コメントを書き込めば応答してくれる。Twitterには同志が溢れており、気に食わなければブロックできる。気に入った人間は鍵垢に連れて行けるし、そうして人間関係はすっかりインターネットにアップロードされてしまった。陰キャ陽キャも関係なく、人間ー人間のかかわりの相当部分が仮想的に実装されていると感じる。

 

リアルの友人を想起するのは、実際会うときではなく、むしろTwitterInstagramで見かけたときではないだろうか。会話の頻度も、チャットの方が明らかに多いという相手が殆どなのではないか。

 

人間ー人間の関係が社会に飽和していると、その毒として色々なものが生じうるのだろう。しかし、ここで言いたいのは、陰キャという本来はコミュニケーション能力に相当の欠陥がある階層においても、インターネット化された社会においてはバーチャル人格と関わることができる(vtuberTwitterのネッ友はまさにその類のものなのだと思う)がために、もはやそこに孤独、つまり人間関係の欠乏は存在しえないのだ。

 

昔のネット掲示板全盛期とは異なり、いまや本当にほとんどの若年者のコミュニティはアップロードされてしまっており、ネットとはもはや日陰者のオアシスではなく現実社会がより滑らかになったもの、あるいは現実社会の肉体的・物質的な部分を剥奪してコミュニケーションを抽出したものとなってしまっている。そこでは人格を作成することができるし、消去することも容易い。

 

かつてのオタクのイメージとは、コミュ障や引きこもり、不潔などマイナスなものが多く、それらは現在も引き継がれているのだとは思う。しかし、そこには一定の”自負”があったのだと思っていて、つまり自分たちは世を穿った見方で見て、皮肉めいたユーモアを書き込み、突飛なアイデアを実行し、そして世間の連中とは違うという自らの逃避的信念をより強固にする傾向があったように感じる。もはやその手の行動力を産みだすほど、陰キャ階層はコミュニケーションの欠乏に直面していないし、社会からも隔絶されてはいないのだろう。陰キャ芸をするオタクが同種の人間同士で群れ、馴れ合い、対立している様はただの社会である。

 

人間ー人間関係が飽和してしまい、オタク・アイデンティティともいえる社会からの隔絶という要素が欠落してしまった今、かつてほど「テンプレートなオタク」は存在していないのだと感じる。やや寂しくもあるが、そんなものだろう。人間とは社会的動物である、ということをひしひしと感じてしまう。独りぼっちは、寂しいもんな。

主観の牢獄

日々が気怠い。寝ても寝ても何かが足りない。

最近、自分が何を抱えているかということがわからなくなった。認知の衰えか。なるべくやるべきことを減らしつつ、しっかりとメモ書きしておく。to do listの管理は元々できない気質なので、なるべくカレンダーアプリにいれてパソコンと同期させ、常に視界に入るようにする。何時の間にか自分はすべきことに囲まれていて、世界が義務のリマインダーになっている。

人とやり取りすることもリマインドとしての側面がある。それは自分とは何なのかを与えてくれる通知機能なのだ。自分が何かをしたとき、それが「意外」であれば人は驚くほど率直に嫌悪を提示する。一方で、それが自分に向けられた枠に合致するものだったとき、安堵交じりに人は接してくる。そういう無数の判定が、僕という人格を構築し、そして僕は僕という人格を常に忘却しているから、気を抜くとすぐに他人がもたらした自分が僕をのっとっているし、のっとられてからどれほどが経ったのか自分でもよくわからないのだ。

記憶を辿れるのは3歳のとき。自我の萌芽を感じたのは5~7歳。しかし、あるタイミングからー明確に意識できているわけでもないなーそれは薄れていった。自分という存在は、うまれてすぐに自分に与えられる名前が何度も何度もひとから呼ばれることで自身に沈着したアイデンティティのひとかけらになるかのごとく、他者から言及されつづけることで確立されていった。

しかし、それは数年前までは、あくまで反発する相手としての、あるいはそうやって投擲された自分に対し反発することで自我を再構築するというアンチテーゼ的自己であったのか、今ではすっかり与えられた脚本を読み解こうとする営みに従事しているのだ。わからない。自分はどうすればいいのか?答えは聖書ではなく他人の顔に描かれている。

それでも、自分のメガネはどこはひしゃげていて、だから僕が他人をみて自分を知ろうとするとき、その一連の直線は歪曲される。僕は他人を通して自分の虚像を見ている。しかし、その他人すら虚像で、結局はなから正しいことの書かれていない経典にかじりついている哀れな教徒なのかもしれない。

どうすればいいのだろう。世界と自分は本質的に断絶されていると信じているからこそ、どうすればいいのか聞きたくなってしまうのだ。

よくわからない。認知力の衰えを感じている。自我を自ら提示する元気がもはやなくなったことが、逆らうことから従うことへの反転を齎しているんだろう。そして、そうなってからというもの、世界は概ね灰色で、僕の脳は萎縮している。

 

青春は踊る、されど進まず

目を閉じると、青春コンプレックスの幻影が、亡霊のように浮かび上がってくる。

 

夏の夜。現代日本における地獄を体現するようなその季節のその時間帯は、多くの人が暑さ、あるいは冷房の無機質な冷たさに苦しみながら、夜を満喫している。僕は僕で目の前のスマートフォンを戯れに弄りながら、世界を眺めている。世界とは所詮箱庭に響く残響のようなもので、見たいものが、聞きたいものが、増幅されて、閉じ込められている。そんな缶詰の中身を、僕らは広大な世界を背景にしながら必死に覗き込もうとしている。人間は中に宇宙をつめこんだ缶詰的存在であるとはよく言ったものだけれど、もはや僕らが缶詰的であるといったとき、文字通り詰められてしまっているのだから捻りも何もない。かつての前衛芸術と比べてもなお、随分と後退したところにいるものだ。そんなどうでもいいことを考えたり、考えなかったり、しながらタイムラインを眺めている。

 

一歩一歩の歩みが遅くなったことに気づいたのはここ数年だろうか。僕が見てきた世界とはもっと輝いていて、もっと冒険にあふれていたはずだ。遅くなったのは足か。認知か。あるいは世界のカレンダーがめくれるスピードか。わからないけれど、何もかもが倦怠感の3文字とともに棄却されるような世界観を得てしまった。リンゴが重力に従って落下するがごとく自明な現象が降り積もって形成された世界への偏見とか印象とかそういうものが、僕の本来的な思考のフレームワークにこびりついて、とれなくなってしまった。

 

ずっと、何かをやり残した感覚がある。何かを置き去りにしている。子供を拉致され、記憶を消されたような、なんといっていいのかわからないけれど、本来すべきことを忘れているような、夢と現実の境界があいまいになっている感じがする。周囲の人間の挙動はだいたいが予測範囲内で、ネット世界すらだいたい思った通りのことが起こっていて。こうして雑音の渦に巻き込まれていくのか。

 

今の社会を雑然と眺めていても、結局のところ人は見たいものを見ようとするし、見えないものを見ようとするときそこには見えない色眼鏡が存在している。JINSより安っぽい。色眼鏡というか色がつきすぎてもはや弱視まである、そんな蒙昧なる連中が跋扈している。所詮分断されたコンパートメントに属する人間同士が群れているだけで、僕らは同居人同士でたまに諍いを起こしたりしているけれど、所詮は微笑ましい夫婦喧嘩の域を出ないのだろう。会話できるというだけで、それはもう包摂されているのだ。

 

対話することは重要だ。公共性などの話をするまでもなく一目瞭然である。しかし対話する能力を持たないものは、最初から疎外されている。その能力は様々なものと結びついていて、結局僕らは対話の成立するもの同士で対話をしているにすぎない。(インターネットというバグった海みたいな場所にいると、時々普段すごしているコミュニティの水準を大きく超える、あるいは下回る人間が漂流してくるけれど、もはや未知との遭遇といっていいレベルの出来事なのだ。それは言い争いにもなるというものである。)

 

僕にとって、もはや退屈な必然が連続するだけとなった世界に欠落しているのは、過去の青春群像である。そこに置き去りにしてきたものが、今もなお内心に引っかかっている。落としたはずなのに後ろ髪をひかれる思いである。その引力からすると、よほど大きな何かがそこにはあるようで、時空を超えて今の自分を束縛している。

 

おそらく青春とは構成的に定義できるものではなく、個々人の抱くティーンエイジの傷跡のようなもので、それはコンプレックスとか欲望とかそういうリアルな人間性の負の部分があるからこそ逆説的に生々しく輝くもので、その渦中においては自覚できないのだと思う。今を生きる、現在性を消費する高校生が、どこか客観的に自らの青春に関して論考を重ねることなどないのだ。むしろ、自覚的であろうと真摯に見つめようとすることが、かえって屈折した態度となってしまう。かつての僕のように。そして、客観性を一時的に忘却した上で没入する体験を、より成熟してから自覚的に振り返ることで、青春は完成する。そのとき、僕らは、未来の地点から、過去の自分の負の要素を捉え、そして現在の自分の負の部分と重ね、感傷を得ている。つまり、僕らにとって青春とは、当事者であったときには生々しくグロテスクなものであったが、その渦中においては自覚することはなく、より時間の進んだ段階においてようやく半意識的に自覚して、大人になった自分と、過去の自分の関連、あるいは断絶にカタルシスを見出すような営為である。

しかし、過去の自らの負の要素は、多くの場合には覆い隠されている。青春は美化される、ということだ。それは人間の認知、記憶の問題でもあるだろう。しかし、あえて美化するというのは、おそらく青春というものが現在から過去を振り返ることで完成するという、あくまでretrospectiveな娯楽的消費物であるということに由来する。無意識では当時自分の抱いていた生々しい感情を把握していて、青春という言葉が想起するかつての日々に抱く感傷がそこから生まれてくるわけだが、僕らはより意識的な部分においては、過去を現在の立場から消費することで青春を謳歌している。現状の惨めな自分を救うのは、存在しない過去の美しい思い出なのだ。僕らが青春を「楽しむ」ことの背景には、そうした二面性が存在する。

 

僕自身は、こうした青春の典型的な消費形式を構築することに失敗してしまった。青春になりうる年代において、僕は現在性を消費する自分に、今を生きている自分に自覚的であろうとしてしまった。ある種揶揄するかの如く、自分や、周囲の、現在に没入する若者を見つめて、冷静ぶろうとしてしまった。それが自分なりに真摯に向き合った結果だったし、この種の在り方もまたある意味でグロテスクな部分はあるが、生々しい未熟さ、若さ、感情のようなものにうまく没入できず、そうした要素をどこか他人事のように観測して、考察して、意味もなく批評を試みていたのが当時の自分だった。その結果、僕は青春をこぼしてしまった。振り返ったところで、あれを純粋に美化できるわけもなく、また、あの日々を生きていた自分が果たしてどこまで当時の瞬間瞬間に没入できていたかというと、正直まったくできてはいなかった。つまらない映画を眺めているときの心境だった。目の前のフィクションの世界を見て、観測して、理解はしつつ、退屈だなと思ったり、ふとシアターを見渡してみたり。集中しきれず、没入できない。

 

青春コンプレックスの正体とは、結局、当時の僕が本当の意味で今を生きれてはいなかった、どこか捻くれた部分を抱え、それなのに無駄に頑張って向き合おうとしてしまった結果生じたものなのかもしれない。だから、例えばラブ&コメディを今更やったところで、それは解消されないのだろう、と思う。

 

今の自分にできるのは、過去のコンプレックスは把握した上で、せめて今からでも、現在を大事にすること、批評家ぶるのではなく集中すること、集中できるくらいには意味のある毎日を過ごすことなのだと思う。

 

それはそれとして、男子中高生で、同年代の彼女と日々を満喫したり、部活を謳歌したり、運動会や文化祭を普通に和気あいあいと楽しんでいたりする連中は、全員爆発してくれ、と願わざるを得ない。

瞬間性に酔う

人生を語ることに意味はあるのだろうか。ない、といえばこの記事はここで終わってしまうので、少し考えてみよう。

まあ、そもそも将来の話など真面目にしているのは青春病患者かその成れの果てくらいものだ。未来を語ることが許されているのは、語り手に対して無限、あるいはそれに近しい未来の可能性が残されているからである。例えば、医学生が大真面目に建築士としての未来を語っていたら、それはあまりに無意味なのだ。だが、高校生が医者になった自分を空想し、そして建築士になった自分を空想することは並立する。つまり、僕らは生きれば生きるほど未来の語る余地が狭くなっていくのだと思う。世間をみてみれば就活だの終活だのとうるさい現代社会だが、歳を取ると自分の死に方でしか将来の話ができなくなってしまうのだからあまりにも虚しい。

過去の話とは、畢竟、後悔と逃避である。所詮はやり残したこと、やらなければよかったことばかりが溢れている。そういう過去の分岐点に思いを馳せて、ifの世界線を妄想する。悲しき叙想法である。懐古という、過去を用いた自慰行為があるけれど、あれも構成成分はほとんどが後悔なのだ。「昔はよかった」のではなくて、昔のダメだった自分も愛おしいという、屈折した自己愛のタイムリープがそこに垣間見える。そして、過去に対する後悔とともに、当時の感情を強く想起して、疑似的な走馬灯を体感しているのだろう。複合的な感情の再現を前にして、僕らは言葉を失う。その状態をエモいと一括するのは、言葉遣いとしては大変便利なterminologyである。

現在に没入していたい。未来の可能性を語ることは、決して未来の可能性を広げない。目の前のことに熱中せずに将来のことばかり気にしていると、いざそれが目の前に現れたときに御すための実力が身についておらず機を逃してしまう。過去の話ばかりすることは、自分の精神をますます脆弱にする。過去とは確定した不変の単一の世界線である。その安定感はすさまじいものがあると思うけれど、それでも過去の話をしていると現在のことをあまりに見落としてしまう。だからこそ、現在という瞬間的な刹那に没頭していたい。

これは空間的な話においても同様だと思っている。つまり、まずは目の前のことに取り組んで、身の回りの人々に目を向けていたい。見えない遠い世界の人間に対してやたらと思いを馳せるのではなく、自分自身を取り囲む微小環境を大事にすべきなのだ。どうしようもなく人間は遠い世界のことを考えて、自分から逃避したがる癖がある。しかし、まずは現在の、リアルの世界における、自分のポジションを明確化することが大事だ。全ての語りはポジショントークである。だったら、自分のポジションを明確にし、自覚していなければならない。そのポジションこそ、過去でも未来でもない現在の、自分を取り囲む環境である。

客観的であろうとすることが理知的な人間の態度であり、そうすべきである―——という主張、というか思想を持つ人は多いようにみえる。むしろ、僕なんかは客観的であろうというポーズすら所詮はポジショントーク的なものであり、むしろ僕らは自分の主観にどっぷりつかって、自分のポジションを常に大事にして、確認して、その上で世界の一プレイヤーとしての行動に専念すべきだと思っている。

評論家ではなく弁論家になるべきで、主張するのは誰かの意見ではなく自分の意見であるべきだ。この意識を常に忘れずに生きていこうと思っている。そして、そのためにこそ自分の周囲の環境を大切に維持していくことが必要なのだ。

 

これからの「酒」の話をしよう

酒。古今東西、いたるところにその逸話は流布している。Alcohol gives you infinite patience for stupidity.-アルコールで、愚かさをどこまでも許せるようになる、という言葉もあるくらいだ。

かくいう僕も、成人してからというもの、酒を飲むことへの渇望がとまらない。もちろん、所詮は学生。飲める酒の程度もたかが知れている。しかし、安酒もちょっといい酒も、それぞれの良さがあるということくらいはわかる。飲み過ぎると、舌が肥えるというより下が肥える...という感じはあるが、一度酔えば体重計もBMIも全部がどうでもいい、そんな気分になる。

僕が好む酒は、やはり日本酒。あとはビールとウィスキー・ソーダ、カクテルあたり、あれば飲みたいという感じだ。日本酒はすぐに酔えるから良い、といえばあまりにも短絡的かもしれない。だが、あの味わいは他の酒にない良さがあると個人的には思っている。宮城の日本酒なら伯楽星、浦霞一ノ蔵山田錦、乾坤一、阿部勘あたりはとても好きだった(細かい区分けまであんまり覚えてない、一ノ蔵色々ありすぎなんじゃい)。基本的には辛口なものが好きで、そういう意味ではこの県に来て結構幸せに過ごせている。ビールはハイネケンプレモルばかり飲んでいるが、おなかに貯まるのを除けばたまらなくおいしいという感じがある。ウィスキーやカクテルは、自分ではまったく買わないものの、そういうお店に連れていかれると試したくなる。『ギムレットには早すぎる』などとのたまいつつ、普通に好きなのであれば注文してしまう。イタリアンのお店にいけばワインも飲むし、基本的には飲めない酒はない。焼酎は本当にほとんど飲んだことがなく、少し寂しい感じもあるが。

酒の何がいいのかといえば、やはり味の種類がノンアルコールに限定されているときよりも格段に広がるという点が第一にある。そして、エタノールによって酩酊しているときの幸福は、やはり素面では得難いものがあるだろう。

あるいは、酒を飲むことによって得られるコミュニケーションもあるのだと思う。やはり、日頃は社会性フィルターが邪魔をしている率直なやり取りも、アルコールによるリミッター解除で実現できるという部分があるのだと思う。勿論、最終的には酒などなくても言いたいことを言い合える関係を樹立すべきなのだが、アルコールはそういう関係性をつくる過程でささやかな手助けを提供することができるのかもしれない。

いい酒があるといって呼ばれればそれが対話のきっかけになることもある。現実の退屈で鬱屈とした日々を、一時的であれ打ち壊してみたいときに、物質の力を借りたいときもある。そういうことなのかもしれない。

それに、一度酔い潰れてから少し落ち着いた頭で、外を歩いているときの、不思議と冷静だがどこか紅潮した気分は、手軽に得られるエモーショナル体験だと思っている。それが午前3時とか4時なら最高で、空が白みだしていたら完璧だ。独りで歩いていてもいいし、誰かと歩いていれば間の抜けた会話が展開されて、数時間後には忘れているはずなのに妙にその内容が部分的に引っかかっていたりする。認知能力を物質によって引き下げることで、ある種の不可思議な体験を得られるとすれば、これほど愉快なことはない。所詮人間というものを律しているのは物質的なものであるということを再認識させられる。

コロナによって酒を飲みかわすこともめっきり減ってしまった。それでも僕は酒と、それがもたらす人間模様が基本的には好きなのだ。勿論多大な迷惑をかけつつかけられつつという感じはあるが、それは先輩後輩の上下関係とか日頃の関係性によって免責してほしい、というものだ。いや、嘘である。思い返すたびに悶絶している。助けてほしい。酒など飲むものではない。とりあえず僕は1日に6合以上は飲まない!という約束をさせられてしまったので、今後は守ったり守らなかったりしていこうと思う。いや、守ります...