青春は踊る、されど進まず

目を閉じると、青春コンプレックスの幻影が、亡霊のように浮かび上がってくる。

 

夏の夜。現代日本における地獄を体現するようなその季節のその時間帯は、多くの人が暑さ、あるいは冷房の無機質な冷たさに苦しみながら、夜を満喫している。僕は僕で目の前のスマートフォンを戯れに弄りながら、世界を眺めている。世界とは所詮箱庭に響く残響のようなもので、見たいものが、聞きたいものが、増幅されて、閉じ込められている。そんな缶詰の中身を、僕らは広大な世界を背景にしながら必死に覗き込もうとしている。人間は中に宇宙をつめこんだ缶詰的存在であるとはよく言ったものだけれど、もはや僕らが缶詰的であるといったとき、文字通り詰められてしまっているのだから捻りも何もない。かつての前衛芸術と比べてもなお、随分と後退したところにいるものだ。そんなどうでもいいことを考えたり、考えなかったり、しながらタイムラインを眺めている。

 

一歩一歩の歩みが遅くなったことに気づいたのはここ数年だろうか。僕が見てきた世界とはもっと輝いていて、もっと冒険にあふれていたはずだ。遅くなったのは足か。認知か。あるいは世界のカレンダーがめくれるスピードか。わからないけれど、何もかもが倦怠感の3文字とともに棄却されるような世界観を得てしまった。リンゴが重力に従って落下するがごとく自明な現象が降り積もって形成された世界への偏見とか印象とかそういうものが、僕の本来的な思考のフレームワークにこびりついて、とれなくなってしまった。

 

ずっと、何かをやり残した感覚がある。何かを置き去りにしている。子供を拉致され、記憶を消されたような、なんといっていいのかわからないけれど、本来すべきことを忘れているような、夢と現実の境界があいまいになっている感じがする。周囲の人間の挙動はだいたいが予測範囲内で、ネット世界すらだいたい思った通りのことが起こっていて。こうして雑音の渦に巻き込まれていくのか。

 

今の社会を雑然と眺めていても、結局のところ人は見たいものを見ようとするし、見えないものを見ようとするときそこには見えない色眼鏡が存在している。JINSより安っぽい。色眼鏡というか色がつきすぎてもはや弱視まである、そんな蒙昧なる連中が跋扈している。所詮分断されたコンパートメントに属する人間同士が群れているだけで、僕らは同居人同士でたまに諍いを起こしたりしているけれど、所詮は微笑ましい夫婦喧嘩の域を出ないのだろう。会話できるというだけで、それはもう包摂されているのだ。

 

対話することは重要だ。公共性などの話をするまでもなく一目瞭然である。しかし対話する能力を持たないものは、最初から疎外されている。その能力は様々なものと結びついていて、結局僕らは対話の成立するもの同士で対話をしているにすぎない。(インターネットというバグった海みたいな場所にいると、時々普段すごしているコミュニティの水準を大きく超える、あるいは下回る人間が漂流してくるけれど、もはや未知との遭遇といっていいレベルの出来事なのだ。それは言い争いにもなるというものである。)

 

僕にとって、もはや退屈な必然が連続するだけとなった世界に欠落しているのは、過去の青春群像である。そこに置き去りにしてきたものが、今もなお内心に引っかかっている。落としたはずなのに後ろ髪をひかれる思いである。その引力からすると、よほど大きな何かがそこにはあるようで、時空を超えて今の自分を束縛している。

 

おそらく青春とは構成的に定義できるものではなく、個々人の抱くティーンエイジの傷跡のようなもので、それはコンプレックスとか欲望とかそういうリアルな人間性の負の部分があるからこそ逆説的に生々しく輝くもので、その渦中においては自覚できないのだと思う。今を生きる、現在性を消費する高校生が、どこか客観的に自らの青春に関して論考を重ねることなどないのだ。むしろ、自覚的であろうと真摯に見つめようとすることが、かえって屈折した態度となってしまう。かつての僕のように。そして、客観性を一時的に忘却した上で没入する体験を、より成熟してから自覚的に振り返ることで、青春は完成する。そのとき、僕らは、未来の地点から、過去の自分の負の要素を捉え、そして現在の自分の負の部分と重ね、感傷を得ている。つまり、僕らにとって青春とは、当事者であったときには生々しくグロテスクなものであったが、その渦中においては自覚することはなく、より時間の進んだ段階においてようやく半意識的に自覚して、大人になった自分と、過去の自分の関連、あるいは断絶にカタルシスを見出すような営為である。

しかし、過去の自らの負の要素は、多くの場合には覆い隠されている。青春は美化される、ということだ。それは人間の認知、記憶の問題でもあるだろう。しかし、あえて美化するというのは、おそらく青春というものが現在から過去を振り返ることで完成するという、あくまでretrospectiveな娯楽的消費物であるということに由来する。無意識では当時自分の抱いていた生々しい感情を把握していて、青春という言葉が想起するかつての日々に抱く感傷がそこから生まれてくるわけだが、僕らはより意識的な部分においては、過去を現在の立場から消費することで青春を謳歌している。現状の惨めな自分を救うのは、存在しない過去の美しい思い出なのだ。僕らが青春を「楽しむ」ことの背景には、そうした二面性が存在する。

 

僕自身は、こうした青春の典型的な消費形式を構築することに失敗してしまった。青春になりうる年代において、僕は現在性を消費する自分に、今を生きている自分に自覚的であろうとしてしまった。ある種揶揄するかの如く、自分や、周囲の、現在に没入する若者を見つめて、冷静ぶろうとしてしまった。それが自分なりに真摯に向き合った結果だったし、この種の在り方もまたある意味でグロテスクな部分はあるが、生々しい未熟さ、若さ、感情のようなものにうまく没入できず、そうした要素をどこか他人事のように観測して、考察して、意味もなく批評を試みていたのが当時の自分だった。その結果、僕は青春をこぼしてしまった。振り返ったところで、あれを純粋に美化できるわけもなく、また、あの日々を生きていた自分が果たしてどこまで当時の瞬間瞬間に没入できていたかというと、正直まったくできてはいなかった。つまらない映画を眺めているときの心境だった。目の前のフィクションの世界を見て、観測して、理解はしつつ、退屈だなと思ったり、ふとシアターを見渡してみたり。集中しきれず、没入できない。

 

青春コンプレックスの正体とは、結局、当時の僕が本当の意味で今を生きれてはいなかった、どこか捻くれた部分を抱え、それなのに無駄に頑張って向き合おうとしてしまった結果生じたものなのかもしれない。だから、例えばラブ&コメディを今更やったところで、それは解消されないのだろう、と思う。

 

今の自分にできるのは、過去のコンプレックスは把握した上で、せめて今からでも、現在を大事にすること、批評家ぶるのではなく集中すること、集中できるくらいには意味のある毎日を過ごすことなのだと思う。

 

それはそれとして、男子中高生で、同年代の彼女と日々を満喫したり、部活を謳歌したり、運動会や文化祭を普通に和気あいあいと楽しんでいたりする連中は、全員爆発してくれ、と願わざるを得ない。