主観の牢獄

日々が気怠い。寝ても寝ても何かが足りない。

最近、自分が何を抱えているかということがわからなくなった。認知の衰えか。なるべくやるべきことを減らしつつ、しっかりとメモ書きしておく。to do listの管理は元々できない気質なので、なるべくカレンダーアプリにいれてパソコンと同期させ、常に視界に入るようにする。何時の間にか自分はすべきことに囲まれていて、世界が義務のリマインダーになっている。

人とやり取りすることもリマインドとしての側面がある。それは自分とは何なのかを与えてくれる通知機能なのだ。自分が何かをしたとき、それが「意外」であれば人は驚くほど率直に嫌悪を提示する。一方で、それが自分に向けられた枠に合致するものだったとき、安堵交じりに人は接してくる。そういう無数の判定が、僕という人格を構築し、そして僕は僕という人格を常に忘却しているから、気を抜くとすぐに他人がもたらした自分が僕をのっとっているし、のっとられてからどれほどが経ったのか自分でもよくわからないのだ。

記憶を辿れるのは3歳のとき。自我の萌芽を感じたのは5~7歳。しかし、あるタイミングからー明確に意識できているわけでもないなーそれは薄れていった。自分という存在は、うまれてすぐに自分に与えられる名前が何度も何度もひとから呼ばれることで自身に沈着したアイデンティティのひとかけらになるかのごとく、他者から言及されつづけることで確立されていった。

しかし、それは数年前までは、あくまで反発する相手としての、あるいはそうやって投擲された自分に対し反発することで自我を再構築するというアンチテーゼ的自己であったのか、今ではすっかり与えられた脚本を読み解こうとする営みに従事しているのだ。わからない。自分はどうすればいいのか?答えは聖書ではなく他人の顔に描かれている。

それでも、自分のメガネはどこはひしゃげていて、だから僕が他人をみて自分を知ろうとするとき、その一連の直線は歪曲される。僕は他人を通して自分の虚像を見ている。しかし、その他人すら虚像で、結局はなから正しいことの書かれていない経典にかじりついている哀れな教徒なのかもしれない。

どうすればいいのだろう。世界と自分は本質的に断絶されていると信じているからこそ、どうすればいいのか聞きたくなってしまうのだ。

よくわからない。認知力の衰えを感じている。自我を自ら提示する元気がもはやなくなったことが、逆らうことから従うことへの反転を齎しているんだろう。そして、そうなってからというもの、世界は概ね灰色で、僕の脳は萎縮している。