多重世界観

世界観が飽和する。
今の社会はエコーチェンバーのマルチバースで、重層的な分断の中で僕らはタグ付けされた個性のもとにカテゴライズされている。さながらタグ検索で一覧表示される投稿のように、各人の属性に基づき人々を包摂するコミュニティが多数存在している。僕は東北大生で、医学生である。男子校出身で、ネット発の文化を主に摂取している。家庭は典型的なアッパーミドルだ。一人の人格は無数の尺度から分節され、そして各々のタグからまとめ上げられたコミュニティに所属することになる。様々なコミュニティに同時に帰属し、そして個人とは個人ではなくなっていく。多面体として、あるいは一方向からの射影としてのみ把握される人間の真の姿というものは客観的、あるいは間主観的には把握されることはない。
自分探しなんて偽物だ。それは「青年期に差し掛かった、コンフリクトに直面する学生」という属性を付与することで、同種の人間が集うコミュニティに帰属するための方便である。
また、趣味とは既存の属性からある程度演繹されるものである。すでに所属しているコミュニティ群と親和性の高いタグがサジェストされているだけだ。それはインターネットにアップロードされたコミュニティにおいて顕著であるが、一方で現実社会でも同様である。郊外の専業主婦は主婦コミュニティにおいて「流行」をインストールするが、それは都会の女子高生コミュニティにおけるものとは隔絶されているということは、言うまでもないだろう。
社会全体を捉える軸とか、語るための物語というものはすでに存在しておらず、自身の所属するコミュニティ群こそが僕ら一人一人にとっての世界である。他のコミュニティにおける価値観とは、博物学的に把握されるただの記述に過ぎない。
その状況ですべきことは、正義とは何かといった普遍的真理に関する思索を深めることでもないし、自分とは何かといった自身の内面の開拓をすることでもない。どのコミュニティを選び、どのコミュニティを切り捨てるかという取捨選択を主体的に行うことだ。帰属するコミュニティ群こそが自分という人格を構成しているという現実を見つめるべきである。勿論、捨象できない属性というのも確実に存在する。それらを言語化して把握しようとする営みこそが本当の自分探しなのかもしれない。しかし、不変の属性を見出すことの実際上の意味とは、変えることのできる自分の属性を認識することにある。そのうえで、何に帰属するのかを選び取っていくのだ。
この構図は、コミュニティごとにアカウントを分けるSNS社会の有り様に酷似している。コンテンツごとにわけるのでもいいし、関係性によってわけるのでもいい。
こうして、1つの世界の中には多数かつ多重の世界観が産まれ、今も増え続けている。そんな中で、すべての社会に通ずる価値観というもの自体が存在の危機に瀕している。
法律は典型例かもしれないが、逮捕されない程度の軽度の犯罪が横行しているコミュニティというものは確実に存在する。世界観の飽和した世界においては、そんなものなんだろうと思う。
目指すべきは世界平和ではなく自分の帰属先を平和にすること、あるいは平和な場所に帰属することである。僕はそのための属性を得るための努力をしていたい。それは属性が得難い場合には得ること自体を目的とした努力であり、属性を見つけること自体が難しい場合には情報収集を徹底し、そして属性の維持や隣接するコミュニティの属性を得るべく行為を繰り返していく。その先に、快適な空間が見つかるかもしれない。