少子化、別によくない?という一若者の感想

少子化、別によくないですか?と思っている。

私は23歳の大学生であり、1浪して今はしがない地方の国立大学で学生をしている。そのような人間のポジショントークとして、少子化で別にいいのではという話を書いてみたい。

 

そもそも、少子化問題を扱ううえで、誰が何をすべきかという根本の部分があいまいであることが多いように感じる。

大前提として、国民一人一人は少子化対策のために何かをする責務を負わない。少子化それ自体の善悪を議論する前の段階として、少子化が何らかの側面で悪であったとして、そもそもこの現象は個人に帰せられるものではない。社会構造や政策の結果として今の出生率があるのみで、マクロの問題である。マクロの問題を議論するときに、その共同体の歯車の一つである僕らに対し責任云々の議論を吹っ掛けるのは、正直言って飛躍でしかない。その点で、時々与党政治家が口にする「女性が妥協しろ」といった提言は的外れもいいところなのである。少子化という現象はマクロの問題なので、それを扱う担当者のみが扱う義務を負う。ただの構成員である僕らに対し、何も求めないでほしい。自発的な変化を求めるのではなく、制度設計によって大衆の行動様式をコントロールするのが為政者であり、その権限を握っている人々が頑張ってほしい。

 

そして、少子化という現象を食い止めるべきかという問題に関して、なるようになればいいのでは?と思っている。そもそも少子化の突き進んだ果ての2100年ごろには、日本の人口は5000-6000万程度に収束し、各年代の人口比率はおおよそ均等に近づいているのだという。人口動態の予測とは往々にして正確なので自分はこの統計をある程度信頼しているのだが、この社会は別に許容できないものではないだろう。もちろん人口ボーナスは今よりも薄れるので産業や技術の側面ではよくて世界の二流国に落ち着いているだろうし、また現代日本と比較すると切り捨てられる地域は確実に存在するのだと思う。そしてそれで別にいいのだと思う。優秀層を国外に送る仕組みは水面下ですでに相当整っているし、低所得~中所得層に対する福祉の仕組みもある程度作られており、あとは身の丈に合った消費行動を我々がとらざるを得なくなるんだろう(購買力の低減により)。

そこに至るまでの過程が日本の場合はあまりにハードランディングだという主張があり、実際そうなのだと思う。それでも、別にいいんじゃないかと思っている。高齢者の数が若者の数に対して多すぎるので、すさまじい額が労働生産人口からむしられていく(すでにむしられている)んだろうけど、金を吸われるだけで生活できるなら別にいいんじゃないかと思う。介護しなきゃとかいろいろあるんだろうけれど、正直それだっていくらでも手を抜くことはできる。身の丈に合わない良心を堅持しなくてもいい。あるいは、子供を作らなければ結構お金は浮く。今は無料の娯楽も多くある。親にしろ子供にしろ、家族というものにそんなに大した価値はない。さっさと解体した方がいい。その静かなる抵抗こそ今の若年中年層がとるべき反逆だと思う。

 

この社会においてそもそも子供を作ったところで、子供の人生はせいぜい二流国たる極東の島国でぱっとしない人生を送って死ぬだけである。この社会において出生を強いることがどこまで許容されるんだろうか。ある種の暴力であると思う。

 

しかし、すでに出生を強いられ誕生してしまった我々が、生殖をしたいと思ってしまうのは許容されると考えている。これは合理的な意思決定というより、生物として強いられている呪いのようなものである。更年期障害が極めて生物学的なメカニズムにより精神に影響を与える、加齢に随伴する不可避な現象であるように、生殖自体への訴求とは誕生自体に随伴する、回避可能性の低い現象である。その欲求にもとづき個人が生殖をおこなうことそれ自体は決して悪ではない。しかし、そもそも持続的ではない社会が生殖を奨励することは悪であると確信している。社会はあくまでニュートラルであるか、あるいは生殖自体を奨励しない姿勢を堅持すべきである。

 

社会において家族という形態は必須ではない。同性婚にしろ夫婦別姓にしろ、そもそも婚姻制度自体を廃止すれば自動的に解消される問題をなぜグダグダ右派も左派ももめているのだと、冷めた目で見ている。産みたい人が産めばいいし、一夫多妻をやりたければやればいい。生殖したくないならしなければいい。結果社会が少子化の道を突き進んだとして、どこかで均衡状態に達するのだ。その過程がハードランディングであるなら、その中で必死に生きるだけである。