嘘のような本当の話

嘘とは一種のゲームである。LIAR GAMEとはよくいったものだけれど(懐かしい)、真実の中に一つだけ虚構を混ぜるのは、相当長けた手練れでないとどこかが綻んでしまう。

僕の趣味の一つに、嘘の自己紹介というものがある。これは、店員というかスタッフとある程度会話することが義務付けられている(というか実質的にそうせざるを得ない)タイプの接客をされるときに、全くの嘘をべらべらと喋るというものである。例えば、床屋にいって身分をきかれれば「あ~、〇〇大の院にいます」などとまるっきり違うことを述べてみるし、それでストーリーを展開する。すぐに出まかせの設定をポンポンとブレインストーミング的に発案しては、そこから整合性とリアリティを両立できるような内容をアウトプットしていく。

まことらしさというものは、恐らく論理と尤度と雰囲気に依るところが多い。純粋なロジックのゲームとして嘘をとらえたとき、それは内容同士が矛盾しなければ良い。日常コミュニケーションとしては、ある内容が常識的に考えて明らかにおかしいものでなければ良い。そしてノンバーバルなコミュニケーションとしては、話者つまり僕が、嘘をついていそうにない雰囲気をまとえば良い。

実践をみてみよう。「ええ、今は〇〇大学の学部、ええ農学部なんですが、そちらの4年です。大学では一応実験を小学生に教えるサークルをやってるんですよね~(笑)給料も出るのですごくありがたいっす、大した額じゃないですけどね」...みたいな形で。実際には情報を小出しにしていくわけだが。

このとき、僕の脳内に僕のステータスは一切存在せず、世界への悪意に満ち満ちた偏見によって構成される「よくいる人間の類型」リストから、別人格を瞬時にインストールしているのだ。内容が論理的に矛盾しないものであるというのは最低条件で、実際にはそれを聞いた人が「うわ~~~めっちゃありそう~~~」と思えるような"あるある"的要素を盛り込むことが重要となる。その上で、「この人間のプロファイルは面白そうである」という意外感までも与えられればパーフェクトである。

さて、僕は嘘をつくのが趣味である。しかし、周囲の人間は僕を「嘘のつけない人間」と評することが多い。自己分析するに、これは「非言語的な嘘」がつけないという意味なのだろう。僕は嘘、というより言い訳、をするときにその内容同士が矛盾しないように整合性を確保すること自体は苦手ではないのだ。逆に、嘘におけるノンバーバルな部分こそ、「バレバレの嘘」の原因であると考えている。

どのようにして、他人をころっと騙せるうまい嘘をつくか。これは、僕に関して言えば、内容の練度というよりは、むしろ伝え方の問題であるということだ。ジェスチャーや声色、姿勢や視線といったものが、嘘をついていることによって極度に変動してしまっているのかもしれない。そして、そのような変化とは、「趣味としての嘘」をつくときにはそこまで生じていないのだろう。一方で、「隠さなければならないが故の、義務的な嘘」をつくときには、バレた場合に引き起こされる惨禍を思うとどうしても緊張してしまうからこそ、非言語的な部分の変化が大きくなってしまうのだろう。

ということから、僕にとって嘘とは趣味であると同時に方便であり、そして方便としてそれを用いるときに、あまりに身振り手振りが"怪しい"ことから、「嘘のつけない人間」として扱われてしまうということだ。

さて、趣味としての嘘とは、論理パズルとしての側面に加えて、日ごろの自分自身からの解放というもう1つの側面からも構成されているのだと考えている。変身願望といえば大袈裟だが、自分でも自分に飽きている節はあるのだろう。実際に自分を変えるのは何かとコストが高いが、言葉だけならゼロコストである。自分自身のストーリーテラーとなって、他人に偽った自分を提示するという行為は、内面世界をリアルの肉体に投影するような感覚を与える。肉体性は有限だが、そこに展開される「人格」は極めて高い自由度を誇る。僕は言葉の上でなら何者にもなれる。それを、論理や尤度や雰囲気という嘘をもっともらしくする要素群によって整形してあげれば、たちまちのうちに僕はそれになることができる。

一期一会の良さとは、こうした場当たり的フィクションが非常に有効であるということに尽きる。一度きりで次はないからこそ、使い捨ての設定を粗造できるのだ。これがもし高校の入学初日だったら、一度使った設定をその後も引きつぐことになってしまう。それは、少し重いじゃないか。個性なんて、ディスポーザブルでいいのだ。

今日も僕は僕という人格を背負い背負わされて生きている。そんなときは、二度と会わないであろう人間を見つけて、嘘の自分を実装してみると、どこか肩の荷が下りた感覚に陥る。だから、嘘が趣味なのである。